飛騨の匠の歴史と文化(2)

金森宗和と京の雅


金森宗和像

時は下って戦国時代、豊臣秀吉の命を受けて天正14年に飛騨入りした金森長近(ながちか)は、高山城や国分寺などを再興し、高山のまち造りを始めます。千利休の茶会では筆頭頭であるほどの茶人であった長近は、町造りにあたり京都の町並みを模範としました。高山の町並みが碁盤の目のように整然とし、東山と呼ばれる山に各宗派の寺院が建ち並んでいるのは、京都を見習ったからに他なりません。2代目である可重(ありしげ)も2代将軍秀忠の茶道指南役として茶頭を務めておりました。そんな環境で生まれた金森家3代を継ぐはずであった重近(しげちか)は茶道にたいする必然性があったことは間違いありません。茶道具として飛騨の匠である高橋喜左衛門に木地を造らせ、御用塗師の成田三右衛門に透きうるしを塗らせ、春慶塗と命名したのも重近でした。
千利休が秀吉の怒りに触れ自殺し、長男である道安が高山で隠遁生活を送っていた折より深く茶の世界に傾倒した重近は金森家三代を異母弟に譲り出家をし、宗和を名乗ります。母と共に京に滞在した宗和は茶道の道を究め、宗和流をおこします。モダニストとして都で活躍する宗和の影響で高山はより洗練された京の文化を取り入れてゆきます。


天領と旦那衆


高山祭屋台(国重要有形民俗文化財

飛騨の豊富な森林資源に目をつけた徳川幕府は元禄五年(1692)金森家を出羽に移封し天領とします。武士が少なく組単位による自治が進んだ高山では強固な団結の元に祭礼を行い、やがて現在の高山祭りを形づくってゆきます。幕末になると財力を持った旦那衆が競って祭礼の象徴である屋台を改修し、工匠たちに技術を競わせ絢爛豪華な現在の屋台となってゆきます。また、商家や造り酒屋の邸宅は、京の雅な様式と江戸の力強い構成に飛騨の匠の技術を加えて完成した建築物として知られております。



日下部家(国重要文化財)
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